取り残された植物
- Shogo
- 2024年9月10日
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私たちの周りに、予想外の場所から植物が生えていることがある。御神木のように守られてきた植物だけでなく、偶然人の生活の中に入り込んで、いつの間にか馴染んでしまった植物もある。

温暖で雨の多い日本では、放っておくと草が茂り、そして低木や大きな木が育ち、やがて照葉樹が主体の暗い森となる。かつて日本では人々は植物を切り取って生活を営む傍ら、残された植物にも美的価値を見出した。

奈良時代後期に編纂された万葉集には、萩や松、ススキなど多様な野生の植物が詩に詠まれた(中尾 1986)。これらの植物は、伐採や野焼を定期的にしている明るい森や草原に育つ。人々は昔から周囲の環境を改変して、その環境に適応した植物に美しさを見出し、いわゆる「もののあはれ」のような日本独自の感性を生みだした。最初は特権階級の人々が自然と生活の関わりに美しさを見出した。しかし、その感性は常に自然と対峙してきた庶民の生活と切り離すことはできない。
一方、日本の園芸文化は中国で発展した「東洋花卉文化センター」の中に形成された二次的な花卉文化である(中尾 1986)。しかしながら江戸時代にはその花卉文化が庶民にも浸透して、椿や朝顔など独自の園芸品種が多く生まれた。その結果、本家の中国や西洋の花卉文化を凌ぐほど発展を遂げた。現在でも四季を通じて花木を愛でるイベントが各地で賑わうように、日本の一般市民の花木に対する情熱は他の地域に類を見ない。今日の日本の園芸文化の本流は、この流れを汲む。そして、野生の植物を愛でる日本古来の感性は、この園芸文化に大きく影響してきた。
野生の植物は、自然保護活動とも深く関わる。明治時代に中央集権を進めるために神社合祀が全国で行われ、地域の財産であった多くの社寺と共にその周囲の鎮守の森が失われた。それに対して、南方熊楠は鎮守の森の豊かな自然と欧米の「エコロジー(生態系)」という概念を結びつけ、自然保護運動を広めた。近年では、自然保護と木を植えることが直結しているので、街の再開発では木を植えて環境に配慮している風に見せるのが定番である。公共の空間は商業施設になり、それまで人の生活と共にあった木は簡単に切り倒されて、その土地に馴染まない木が植えられる。人と植物とのつながりは消費社会の中に消えてしまったように感じられる。
しかし街を歩いて周りを見ると、“無用”な植物を愛でる心は、消滅せず今も生活の中に息づいている。名古屋東部には最近まで丘陵地帯がありアカマツやツツジ類が目立つ植生が広がっていた。現在は木を切ることがなくなり、シイやカシなどの照葉樹に遷移している。しかし、かつての植生は現在も社寺や公園や古い個人宅のなかに見られる。
小高い丘に建つお千代保稲荷の境内には野生のマツやツツジ、ハギなどの花木が多く見られ日本庭園風の景観が作られている。日本庭園に植えられることが多いのはクロマツだが、この境内には野生由来と思しきアカマツが生える。

境内には園芸品種のヒラドツツジが植えられているが、モチツツジやコバノミツバツツジなど野生のツツジ類も多く生えている。境内を完全に放置すればドングリなどの照葉樹の森になり、こうした植物は消えてしまうことから、ある程度は伐採や下草刈りをして、野生の植物の中に美を見いだして感じられる。

このような野生の植生は、周辺の大学内やお寺の中にもある。いずれも人によって取り残された植物である。そのような植物は、人の生活に馴染んでしまい、本来の野生の姿とは少し異なるが独特な景観を醸し出す。こうした景観は手付かずの自然ではないが、意図して作られたわけでもない。


私たちは見た目の良い園芸品種だけでなく、素朴な野生の植物も愛でる。野生の植物は、園芸種と比べると華やかさでは劣ることが多いが、健気さや渋さを備え持っている。日本の園芸文化では、アオキやオモトなど葉を愛でる「侘び寂び」を醸し出す品種が生まれた。日本の園芸文化は、西洋花卉文化のように人為的交配に頼らず多様な品種を生み出した。自然交配だけで多様な品種を生み出すには、園芸品種と近縁な野生種が周辺に存在することは非常に重要である。例えば欧米でブームを巻き起こした日本の椿は元々中国の品種だったが、日本に自生していたユキツバキと交雑したことが多様な品種が生まれる要因になった(中尾 1986)。人々は万葉集の時代やあるいはもっと昔から、多様な野生の植物を愛でていた。その感性が日本の園芸文化に及ぼした影響は大きいだろう。
おもしろいのは文化の根底にある、人と自然の関わり方である。その感性は、本流の文化とは違った形で受け継がれてきた。大衆が無自覚になんとなくやっている習俗に見出せるのではないか。現在でも、街中で交通の邪魔になる樹木を大切に保護したり、野生化してコンクリートを突き破って生える野菜が話題になったりする。園芸のように外来の文化が日本で独自に大発展することにも、大衆の感性が関わっている。たとえ本流の文化が時代の波に飲み込まれても、大衆の感性は形を変えながら続いている。

日本の文化を考えるために本流の文化だけを辿っていくと、日本独自の文化とは何かがわからなくなってしまう。例えば、かつて焼畑という多様な作物と自然環境を利用した農耕文化があり、あとから入ってきた稲作文化に入れ替わった。しかし焼畑文化は消滅することなく現在まで共存し、新しい農耕文化にも影響を及ぼしてきた(佐々木 2009)。一万年に及んで育まれた縄文時代の文化が、形を変えて今も生活に根付いていると考えることもできる。これまでに、民俗学や考古学や生物学など多様な学問が分野の垣根を超えて、こうした疑問に取り組んできた。疑問を発見し、新しい視点や価値観を探求するのが学問の本懐であり、芸術や文化も巻き込み発展する。私たちが無意識に守ってきた文化的財産は、これからも再発見されるだろう。

文献;
花と木の文化史 / 中尾佐助著 1986 岩波書店
日本文化の多様性 : 稲作以前を再考する / 佐々木高明著 2009 小学館



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