軒先の植物
- Shogo
- 2024年8月28日
- 読了時間: 3分
日本では、住宅の軒先や入り口付近に植物を植える。無機質な街中でも、軒先の植物がある場所は、その周りが明るく生き生きとしている。おそらく多くの日本人は軒先で植物を育てる慣習を、伝統とは考えずに自然に行っている。しかしこの慣習は国内で広く根付き、多様化しているようにも見える。

名古屋市中心部にある伝統的な民家の軒先にも植物を植える小さなスペースがある。日本では見慣れた街の風景だが、近代的な建物、西洋建築であっても、所有者が軒下で植物を育てるのが当たり前であるかのようにデザインされている。様々な建築に、限られた間口の空間を犠牲にしてまで植物を植えてようとする執念を感じる。私はフランスやイタリアでも同じように植物を育てている光景を見たが、これほど徹底している国は日本以外にあるだろうか。私は同じような軒先の植物を、中国の蘇州の街中の伝統的な集落でも見た。この文化は海外からやってきたのかもしれない。また、条例で決まっているからという説明もあるだろう。しかし、この執念はどう説明すればいいのだろうか。人と植物との関わりを見ることで、その文化の根底にある自然観が垣間見られる。

お正月や節分などの風習では、竹や松、ヒイラギなど身の回りの植物を軒先に置く。お寺や神社のお供えでも、シキミやサカキなど身の回りの植物を利用している。この風習に用いられる植物の種類にも地域性があり興味深い。また、軒先に手水鉢を置いて金魚を飼うことや盆栽を置くこともその文化の一部なのだろうか。
日本庭園が建物の中から見ることを想定して創られるのに対して、軒先の植物は家が面している道側から見られることを想定している。外から見るという意味では生垣の植物と同じだが、軒下の植物の特徴として「小ささ」がある。限られた空間で、葉や花をみずみずしく保つには、まめな手入れが必要で。植物を小さく刈り込み、新しい葉や花を多く保つことが欠かせない。小さくすることで、外から人が家に来たときに、優しく出迎えているように見える。荒ぶる野生を工夫して生活に取り入れ、共存してきた人々の執念である。これは、現在の「カワイイ」文化など様々な日本発コンテンツにも垣間見られる。
街中では、軒先の植物は街路樹などの外の植物と一体となっていて、癒しの空間を生み出す。「自然と生活の一貫性」は今も身近に息づいている。日本の園芸は、周囲の要素を取り入れ人間の生活に合わせて利用する。境界が曖昧で連続性がある。植物学者の中尾佐助は、東アジアの多様な植生を背景に発展した「東洋花卉文化」を提唱した。また東アジアの中でも、日本では、在来の植生や中国など近隣諸国の植物を取り入れて独自の園芸文化が形成された。近年では西洋や新大陸の植物を取り入れている。不思議なことに、欧米の植物でも日本の軒下で育てられると、なぜか日本的な雰囲気を醸し出す。野生を生活に取り入れてきた日本の人々の執念は、これからも多様な自然との関係を築いていくだろう。私はそれをスケッチする。これからも、他の記事でおもしろい発見を紹介したい。

北米原産のモミジアオイも、軒先に植えられると日本的な情景を醸し出す。伝統的な家屋が残る名古屋市街の那古野の住宅の軒先のスケッチ。



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